千歳車塚古墳 in亀岡

2022年2月

京都亀岡市にある出雲大神社から700mほど離れたところにこんもりとした丘を発見‼️👀✨

あれは古墳なんじゃないか⁉️と思ったらGoogleで『近くの古墳』を調べられるってホントに便利だよねー🤩

調べたら『千歳車塚古墳』ということで早速Go‼️

時期的にお休み中の田畑の真ん中に本当にこんもりと丘といった感じで佇んでいたキレイな前方後円墳の形。

丹波地方最大規模の古墳ということもあり、

濠っぽいところから見上げると3~4mはあるかなという高さの墳丘がカッコイイ!

新緑の時期だともっと緑がもりもりとした墳丘になるんじゃないかなという季節を感じる古墳でした。

墳丘に登ることは出来そうになかったけれど、

あぜ道を使ってぐるっと周りをまわることができましたよ😊

 千歳車塚古墳Wikipediaより ↓↓↓

亀岡盆地東北部、稲築山から伸びる台地の先端部に築造された古墳である[1]。これまでに周濠部分に関して数次の発掘調査が実施されている。

墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける。墳丘は3段築成[1]。墳丘長は現在約82メートルであるが、元は88メートル程度あったと見積もられる[1]。前方部が発達しており、前方部幅が後円部直径を上回るという特徴を有する[1]。墳丘の左くびれ部には造出を持つ可能性が指摘される[1]。また他の外部施設として、墳丘表面には葺石埴輪が認められている[1]。墳丘周囲には2重の周濠が巡らされ[2]、そのうち内濠(盾形周濠)の痕跡は現在にも墳丘周囲の一段低い平地として認められる[1]。これら墳丘と周濠は墳丘主軸線に対して左右非対称で、かつ後述の「片直角型」をなすのが本古墳の最大の特徴になる[1]。主体部となる埋葬施設(内部施設)は未調査で、明らかではない。

この千歳車塚古墳は、後円部付近より出土した円筒埴輪から、古墳時代後期の6世紀前半頃の築造と推定される[1]。築造当時としては丹波地方で最大規模で、近畿地方でも屈指の規模になる[1]。律令制下では和銅6年(713年)に分国されるまで丹波国丹後国は1つの国であったことから、本古墳の被葬者も丹波・丹後地域を統括する勢力を有したと推測される[3]。また本古墳は古墳時代中期の伝統的な「片直角型」前方後円墳を採用し、同時期の大王墓で継体大王(継体天皇)真陵とされる今城塚古墳大阪府高槻市)のような新しい「剣菱型」前方後円墳とは性格を異にするという特徴を有しており[1][4]、一説に被葬者は継体大王と同格の皇位継承候補者であった倭彦王仲哀天皇5世孫)に比定されている[5]。本古墳の築造後は、当地で首長墓は営まれず、本古墳に続く首長墓は口丹波の他の地域に移された[6]。

古墳域は1970年昭和45年)に亀岡市指定史跡に指定されたのち[7]、1982年(昭和57年)に国の史跡に指定された[8]。現在では毎年春先に野焼きが行われる[9]。なお周辺では、古代の磐座祭祀の面影を残す出雲大神宮(丹波国一宮)や、丹波国分寺跡・国分尼寺跡など律令制下の丹波国の中心施設が位置する。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%AD%B3%E8%BB%8A%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3